れつれっぷの森、きれい事では愛しきれない♪
タイトルで諸々朴って御免なさいネ。人事の季節ですね、皆様におかれましては如何お過ごしですか?。市町村立の小学校の教頭(副校長)先生も学校に慣れるまで大変ですねー、「にほん市ねー(ウン?)」とはならないように祈ってます。
★れつれっぷの森
札幌村郷土記念館編集の「東区拓殖史(昭和58年12月28日初版)」には、「開拓当時の烈々布(れつれっぷ)は天を摩す原生林が茂り、昼なお暗い密林であった」と記述されている。おぉっー!。「日の丸農場跡地につくられた日の丸公園の原生林が、今にその姿を伝えている。」
昭和58年(1983年)では、まだその様な姿だったんでしょうね(とほほっ、今はご隠居さんの散歩コース)。その公園の向かいにある小学校を「札幌市立栄小学校」と云う。厳密に言うと、小学校の向が公園なのだ。何しろその小学校の創立は約115年も前なのだ!!!。
いわく「1901年(明治34年)に札幌村藤古尋常小学校(現・札幌小学校)の分校として開校したのを発祥とし、1903年(明治36年)に烈々布尋常小学校として独立。札幌村と札幌市が合併した1955年(昭和30年)に現在の校名になった。」
1970年(昭和45年)9月に栄小学校にて出版された「れつれっぷの森」(非売品)には、次のように書かれていましたよ「烈々布に関する資料が少ないので今一つ父兄や生徒の理解が足りていない。」それで同書を編纂したらしいですよー。
立派な考えだ。
ザックリ云って、「れつれっぷの森」は石狩低地帯の一部で、どこからが陸でどこからが沼か分からない「低湿地帯(谷地、泥炭地)」が広がっていたらしい。観たようなことで恐縮だが「ヤチダモとミズバショウ」の天下だった訳だ。
★日の丸公園(ひのまる公園)
平成26年(2014年)発行の「東区ガイド」、早い話が地図だが、には「ひのまる公園」と記されている。きっと「常用漢字(当用漢字)」には日の丸が無っシングーなんでしょうd(^-^)ネ!。
それはともかくも(兎も角かーい!)、この日の丸公園には曰く因縁がおありになるようだ(舌咬んだ)。実に面白う・・・。1973年(昭和48年)頃に造園されたらしいですよ。
コチラを参照→■ひのまる公園の歴史 - DingDong - Yahoo!ブログ
なるほどーネーと云うトコロだろうか。このブログには「日の丸水田組合史」と云うリンク先がある。非売品で、札幌市立図書館にあるソレには昭和51年11月20日刊行となっていた。どんな内容かというと「郷土史+財界札幌誌(月刊クオリティ)」みたいな冊子である(苦笑い)。
政界・財界にわたるリアルな史実が描かれている。そのあたりがなみの郷土史とは違うところだ。堀 基(ほり もとい)、天保15年6月15日~明治45年4月8日、関連の記述は他の追随を許さないだろう(ほめすぎーかな)。
コチラも参照→■縁あって 札幌発御朱印の記録 烈々布神社
スゴイ記述ですね、神社さん関係者の方が・・・(自粛)。「レツレップ古川」の件が興味深い。
いわく「伏籠川から分岐するこの川の始点は元村(現東区元町)です。ところが、石狩と札幌を結ぶ旧石狩街道によって、川が埋め立てられたように寸断されているのです。この地形から『ル・エ・トイェ・プ』(道がそこで川を切っている)というのが本来の意味だと推察されます。(アイヌ語研究家・藤村久和氏)」
さらに「この川は、昭和期に丘珠飛行場の建設や札幌市街の発展などで埋め立てられ、地名と同様に姿を消しました。烈々布の名前は今日、神社や橋などに残るだけとなりました。」
因みに、札幌市の区画整理関連でこのあたりが出現(苦笑い)する資料は以下です。
コチラを参照→■日の丸地区/札幌市
施工期間が「日の丸水田組合史」の記述と一致しているようだ。素っ気ないのは、市が主事業者じゃないからかしらねー、知らんけど(苦笑)。占領軍!、民間組織と国および道が絡んでいて「大変だー」というところか。
★余談
低地とは何ぞや(大上段)。いわく「河川流域や開析谷、および沿岸部に分布し、いわゆる沖積層を成す。 河川によりもたらされる土砂や浸食二次堆積土を主体とし、砂や砂礫、砂質シルトなどを混在することが多く、泥炭層が形成されていることもある。」
「住宅利用を考えた場合、軟弱地盤を形成していることが多いため、基礎形式の選定は特に慎重に行なう必要がある。 なお、泥炭層分布域では泥炭の特殊性を十分に考慮した判断が必要となる。」
ってな訳で、旧札幌烈々布(栄地区など)の辺りに住宅やアパートをお建てになる場合は、コンクリートパイル等を打ち込むことになるでしょう。
それを踏まえてコチラを参照→■廃田を条件に区画整理 -151 - DingDong - Yahoo!ブログ
興味深いですねー、政治ですね。農業とは即ち政治と云う事ですね。上の区画整理には、選挙というバックグランドがあったのかな。
いわく、「新聞は春の地方選挙で連日紙面を大きくさいて報道、保守か革新かを巡る激烈な前哨戦の情勢を伝えている。戦後三十四歳の無名の青年であった社会党の田中敏文が、十二年にわたる北海道知事の座から引退、町村金五を推す保守派は総力をあげて四回目の雪辱戦に燃えた。」昭和34年(1959年)頃の話しだそうだ。(岐路に立った用水路(2) -140 - DingDong - Yahoo!ブログ)
町村金吾VS.横路節雄の保革一騎打ちですね、町村か横路かってな事で盛り上がったそうです。因みに、札幌市長に当選したのは「原田與作(はらだ よさく)」さんですね。さらに因みに、総理大臣は岸信介さんでした。60年安保の幕開けー!ってな年でした。
詳細は「日の丸水田組合史」の目次より「岐路に立った用水路(1)、岐路に立った用水路(2)、住宅街の中に孤立した水田」等を参照下さい。正に「きれい事では愛しきれない♪」と云う事ですね。
含蓄がありますねー(お前が言うな^!)。この歌に絡めて「環境問題がドウタラ」と吼えた人がいたらしいですよ(爆笑)。失礼ながら、国語が不便(ウン?)だったのかな。
大幅に端折ってしまったが、是非とも「日の丸水田組合史」をお読み下さい。この日の丸公園の件は今少し研究(大袈裟か)して突っ込んでみたいかな。期待しないぞー、で宜しく。
蛇足だけど、郷土史と大河ドラマ(ウン?)が「ツマラン」のは、政治を描き切れていないからじゃないの?、知らんけど。
→東区拓殖史―東区今昔3 (1983年) -古書。定番だが、惜しむらくは明治の頃の政治向きの話しが少ない。例えば、薩長政府と非薩長勢力の確執とか(開拓にも影響を与えた)。
→新装版 赤い人 (講談社文庫) 文庫。これも定番。明治期の北海道開拓に使役された囚人達の話し。明治13(1880)年に札幌郡苗穂村に建設された札幌監獄(本)署も例外ではなかったようだ。濁った部分も含めての歴史(大河)というところだろうか。歴史認識を人文主義だけで割り切ろうとするのはイケテませんね。
★れつれっぷの森
札幌村郷土記念館編集の「東区拓殖史(昭和58年12月28日初版)」には、「開拓当時の烈々布(れつれっぷ)は天を摩す原生林が茂り、昼なお暗い密林であった」と記述されている。おぉっー!。「日の丸農場跡地につくられた日の丸公園の原生林が、今にその姿を伝えている。」
昭和58年(1983年)では、まだその様な姿だったんでしょうね(とほほっ、今はご隠居さんの散歩コース)。その公園の向かいにある小学校を「札幌市立栄小学校」と云う。厳密に言うと、小学校の向が公園なのだ。何しろその小学校の創立は約115年も前なのだ!!!。
いわく「1901年(明治34年)に札幌村藤古尋常小学校(現・札幌小学校)の分校として開校したのを発祥とし、1903年(明治36年)に烈々布尋常小学校として独立。札幌村と札幌市が合併した1955年(昭和30年)に現在の校名になった。」
1970年(昭和45年)9月に栄小学校にて出版された「れつれっぷの森」(非売品)には、次のように書かれていましたよ「烈々布に関する資料が少ないので今一つ父兄や生徒の理解が足りていない。」それで同書を編纂したらしいですよー。
立派な考えだ。
ザックリ云って、「れつれっぷの森」は石狩低地帯の一部で、どこからが陸でどこからが沼か分からない「低湿地帯(谷地、泥炭地)」が広がっていたらしい。観たようなことで恐縮だが「ヤチダモとミズバショウ」の天下だった訳だ。
★日の丸公園(ひのまる公園)
平成26年(2014年)発行の「東区ガイド」、早い話が地図だが、には「ひのまる公園」と記されている。きっと「常用漢字(当用漢字)」には日の丸が無っシングーなんでしょうd(^-^)ネ!。
それはともかくも(兎も角かーい!)、この日の丸公園には曰く因縁がおありになるようだ(舌咬んだ)。実に面白う・・・。1973年(昭和48年)頃に造園されたらしいですよ。
コチラを参照→■ひのまる公園の歴史 - DingDong - Yahoo!ブログ
なるほどーネーと云うトコロだろうか。このブログには「日の丸水田組合史」と云うリンク先がある。非売品で、札幌市立図書館にあるソレには昭和51年11月20日刊行となっていた。どんな内容かというと「郷土史+財界札幌誌(月刊クオリティ)」みたいな冊子である(苦笑い)。
政界・財界にわたるリアルな史実が描かれている。そのあたりがなみの郷土史とは違うところだ。堀 基(ほり もとい)、天保15年6月15日~明治45年4月8日、関連の記述は他の追随を許さないだろう(ほめすぎーかな)。
コチラも参照→■縁あって 札幌発御朱印の記録 烈々布神社
スゴイ記述ですね、神社さん関係者の方が・・・(自粛)。「レツレップ古川」の件が興味深い。
いわく「伏籠川から分岐するこの川の始点は元村(現東区元町)です。ところが、石狩と札幌を結ぶ旧石狩街道によって、川が埋め立てられたように寸断されているのです。この地形から『ル・エ・トイェ・プ』(道がそこで川を切っている)というのが本来の意味だと推察されます。(アイヌ語研究家・藤村久和氏)」
さらに「この川は、昭和期に丘珠飛行場の建設や札幌市街の発展などで埋め立てられ、地名と同様に姿を消しました。烈々布の名前は今日、神社や橋などに残るだけとなりました。」
因みに、札幌市の区画整理関連でこのあたりが出現(苦笑い)する資料は以下です。
コチラを参照→■日の丸地区/札幌市
施工期間が「日の丸水田組合史」の記述と一致しているようだ。素っ気ないのは、市が主事業者じゃないからかしらねー、知らんけど(苦笑)。占領軍!、民間組織と国および道が絡んでいて「大変だー」というところか。
★余談
低地とは何ぞや(大上段)。いわく「河川流域や開析谷、および沿岸部に分布し、いわゆる沖積層を成す。 河川によりもたらされる土砂や浸食二次堆積土を主体とし、砂や砂礫、砂質シルトなどを混在することが多く、泥炭層が形成されていることもある。」
「住宅利用を考えた場合、軟弱地盤を形成していることが多いため、基礎形式の選定は特に慎重に行なう必要がある。 なお、泥炭層分布域では泥炭の特殊性を十分に考慮した判断が必要となる。」
ってな訳で、旧札幌烈々布(栄地区など)の辺りに住宅やアパートをお建てになる場合は、コンクリートパイル等を打ち込むことになるでしょう。
それを踏まえてコチラを参照→■廃田を条件に区画整理 -151 - DingDong - Yahoo!ブログ
興味深いですねー、政治ですね。農業とは即ち政治と云う事ですね。上の区画整理には、選挙というバックグランドがあったのかな。
いわく、「新聞は春の地方選挙で連日紙面を大きくさいて報道、保守か革新かを巡る激烈な前哨戦の情勢を伝えている。戦後三十四歳の無名の青年であった社会党の田中敏文が、十二年にわたる北海道知事の座から引退、町村金五を推す保守派は総力をあげて四回目の雪辱戦に燃えた。」昭和34年(1959年)頃の話しだそうだ。(岐路に立った用水路(2) -140 - DingDong - Yahoo!ブログ)
町村金吾VS.横路節雄の保革一騎打ちですね、町村か横路かってな事で盛り上がったそうです。因みに、札幌市長に当選したのは「原田與作(はらだ よさく)」さんですね。さらに因みに、総理大臣は岸信介さんでした。60年安保の幕開けー!ってな年でした。
詳細は「日の丸水田組合史」の目次より「岐路に立った用水路(1)、岐路に立った用水路(2)、住宅街の中に孤立した水田」等を参照下さい。正に「きれい事では愛しきれない♪」と云う事ですね。
含蓄がありますねー(お前が言うな^!)。この歌に絡めて「環境問題がドウタラ」と吼えた人がいたらしいですよ(爆笑)。失礼ながら、国語が不便(ウン?)だったのかな。
大幅に端折ってしまったが、是非とも「日の丸水田組合史」をお読み下さい。この日の丸公園の件は今少し研究(大袈裟か)して突っ込んでみたいかな。期待しないぞー、で宜しく。
蛇足だけど、郷土史と大河ドラマ(ウン?)が「ツマラン」のは、政治を描き切れていないからじゃないの?、知らんけど。
→東区拓殖史―東区今昔3 (1983年) -古書。定番だが、惜しむらくは明治の頃の政治向きの話しが少ない。例えば、薩長政府と非薩長勢力の確執とか(開拓にも影響を与えた)。
→新装版 赤い人 (講談社文庫) 文庫。これも定番。明治期の北海道開拓に使役された囚人達の話し。明治13(1880)年に札幌郡苗穂村に建設された札幌監獄(本)署も例外ではなかったようだ。濁った部分も含めての歴史(大河)というところだろうか。歴史認識を人文主義だけで割り切ろうとするのはイケテませんね。
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